「普通」というものに嫉妬していた。
普通の親、普通の兄弟、普通の友人。
その他多くの普通。
身に余る富や名声などいらない。
ごくありふれた人生でよかった。
両親がおり、兄弟がおり、友人がおり、各々の家庭があり、各々が幸せに暮らし、時に集い、笑いながら酒を酌み交わし、励ましあい、悲しみも分かち合い、肩を寄せ合い、手を取り、未来へと紡ぐ。
やがて各々は人生をまっとうし、惜しまれながら眠りにつく。
各々が残した希望たちはまた、未来へと紡いでいてく。
これは普通なのか?
一体、どれだけの人がこの「普通」を手にしているのだろう。
手にしている人のほうが少ないのではないか?
これは「普通」ではない。
とても幸運なことだ。
どうしても自分を基準に、相対的にしかものごとを見ることができない。
人は己の不幸を取り分け、特別に感じてしまう。
「私のほうが。」
「いや、私のほうが。」
僕もそうだ。
しかしどうだろう。
あんなに嫉妬していた「普通」は普通のことではなかった。
皆が憧れる、皆が望む理想であった。
それは嫉妬するものではなく、自ら掴まねばならないものであった。
ただ、若いころの僕には生まれを呪う以外、成す術がなかったのだ。
身体的に他者より劣っており、家庭環境も他者より劣っている。
僕にはナイフもフォークもスプーンもなかった。
手づかみで食べる姿を見られまいと必死で隠して、大人になり、いざそれらを手にしてみたとき、僕は扱い方がわからなかったんだ。
上手に切ることができない。
上手に刺すことができない。
上手にすくうことができない。
上手に口に運ぶことができない。
笑ってしまったよ。
「こんなもの必要ないんじゃ、ないか?」
と。
僕にとって「普通」はあまりにも遠すぎる存在だった。
きれいに食べることすらできない僕にとって。
皆が望むものであっても、多くは手を伸ばせば届く距離にあるのかもしれない。
だけど僕にとっては、遥か彼方のものだった。
人は己の不幸を取り分け、特別に感じてしまう。
そんなことは重々承知なんだ。
みんなそんなことはわかっているんだ。
だけど、弱音を吐かなければやっていけないだろう?
すべてを自分のせいにして生きていくのはつらいだろう?
頭ではいくら理解をしていても、手を伸ばす度に突き付けられる、届くことがないという現実。
これをあと何度、味合わなければならないのか?
何度繰り返されるのか?
その絶望や失望を嫉妬に変えねば、自分がダメになってしまう。
生産的でも論理的でもなく、無駄な労力だとしても生まれを呪わねば、自分がダメになってしまう。
ぎりぎりで踏みとどまっていたんだ。
ただ、食べる姿を見せることさえままならない僕は、
未だ手づかみで食べる僕には、皆の背中すら見えてこない。
僕の後ろを歩く人たちに、振り向き優しい言葉を掛けてあげることすらできない。
励ますことも、手を取り合うことも、勇気づけることも。
そんな余裕などない。
ましてや彼らが僕のいるところまでたどり着くことが出来たとて、
まだまだ先の長い道のりを見て何を思うのか。
僕は誰かを傷つけたいわけじゃない。
どこかから引きずり下ろしたいわけじゃない。
足を引っ張りたいわけじゃない。
諭したいわけじゃない。
不幸自慢をしたいわけじゃない。
本当に皆が皆幸せであってほしい、と思っている。
昔も、今も。
僕はもう歩もうとも留まろうともどちらでもいい。
この燻ぶった火が、空を焼く激しい炎とならぬよう見つめ続けるだけ。
だけどね、もうくべるものすらないんだよ。
この身以外に。
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